ヒロシマへのアツイオモイ

ここ10数年、夏に帰省するときはすでに6日はもちろん過ぎ去っていて、15日の終戦記念日
迎えるくらい。お昼に甲子園最速投手の登板を見ながら正午を迎え黙祷し、62年前に思いを
寄せるわけだが、それでもやはり岡山よりとはいえ、広島(ないしヒロシマ)県という場所にいると、
暑い夏であればあるほど、独特の空気をぐっと感じるところがあるのは例年変わらない。

県外にいた大学生時代以降、とりわけNGOや市民活動・運動に関わるようになってから、
それなりに多くの人たちが広島に対して「アツイオモイ」を持っていることを痛感する。
「そうなんだよ」と思いつつ、「なんなんだよ」という思いもまた感じることになる。国内の至る
ところで同じように筆舌に尽くしがたい戦災を被っている一方でのヒロシマ(またはナガサキ)に
対する「アツイオモイ」に「ふむ…」と考え込むところがあるわけだ。もちろん、書くまでもないが、
「ヨソ者には分からないよ」なんていう意味ではない(いやそういう意味なら僕だって「ヨソ者」だ)。
けれど、どこか考え込んでしまうところがあるのだ。そんな思いを持ちながら、(奥付によれば)
8月6日に発行された、東琢磨さんの『ヒロシマ独立論』(青土社)に目を通した。

ヒロシマ独立論
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東氏はこんな風に広島を紹介して本をはじめる。

 広島は、ベンヤミンのベルリン、デイヴィスのロサンゼルスのような都市ではない。その「都市」としての魅力そのものにおいて世界中の人々を惹き付けてやまないような大都市ではないという意味においてだ。(中略)「美しいもの」とは、むしろ、被爆という受苦の経験そのものであるといってもいいかもしれない。この経験によって、広島は「ヒロシマ」というシンボルになり、世界からその存在の意義と力を常に「問われる」(栗原貞子)存在となった。(p.10)

広島に生まれ育ち、東京でしばらく過ごし、今は再び広島に居を構え、「生活」する東氏は、
その「問われる」存在である広島/ヒロシマ廣島という「都市」を、「生活」する上での
さまざまな視点から真の「都市」を構想する。

そのなかに「教育」を取り上げた章がある。東氏によれば、広島市では「平和行政」という言葉が
日常的に用いられている。さまざまな行事や市民活動支援のための予算などに関わってくると
いうこの「平和行政」で最近全面に打ち出されているのが「(国際)交流」なのだそうだ。
再び引用する。

恵まれない国の子どもたちと「平和交流」とかならいいということになっている。「平和行政」なんてことばがあって、平和運動めいたものにカネが降りてくる都市は、広島ぐらいではないだろうか。そのこと自体を悪いとは考えないが、「運動」が囲い込まれてしまうという部分はある。その運動は、反国家や反資本主義には絶対にならず、予定調和的な「平和交流」というかたちになっていかざるをえないということだ。豊かな日本、被爆したけど復興した広島が、平和を伝播し、貧しい子どもたちに手を差し伸べる、そうした語り口のものになっていくのだ。暴走族追放条例での「国際平和文化都市の印象」とは、おそらくこうしたイメージのことであるのだろう。(pp.126-127)

官民連携だのパートナーシップだのという「囲い込み」の問題はとりあえず置いておくとして
(とはいえ、実際これはひどいものが多いが悲しいかな市民社会が根付いていない日本でこれを
あてにした市民活動はとてつもなく多い)、ODAにおいても「復興した」日本による貸付ODA
功罪…というか、功の部分を前面に押し出していることから想像は容易だろう。
同時に「平和都市」としてのヒロシマの外からの「アツイオモイ」が生み出す外からのヒロシマ
への作用もまたこれを外部から補強するものになっていることも忘れてはなるまい。
同時にそれは「都市」ヒロシマだけではなく、ヒロシマに根を持つ人たちに対しても
「アツイオモイ」を無批判に向けていることは、平和・反戦アクションに関わる中で僕自身、
強く感じ、また時として「アツイオモイ」が真剣であるがゆえに「疲れる」部分もあるのだ。

それは同時に東氏も「平和学習というものが、「日本人」の責任を若い世代に背負わせていき、
そのことで国家と一体化した「日本人」をつくっていってしまった」と指摘しているが(p.127)、
ODAで日の丸の描かれた看板がプロジェクトサイトに堂々と掲げられていることに辟易する
ように、世界の平和を願うなかに必然的に「日本人」としての平和を植え付けられることになり、
それが知らず知らずのうちに、「平和学習」のみならず、市民の平和・反戦アクションにも
ヒロシマを想起せよ」などという形で反映され、ナショナルなものに収斂されることも非常に
多くはないだろうか?…そんなことを考えるのだ。

東氏は、市内南区の…などと、さまざま具体的な視点・場所から「都市・ヒロシマ」を語る中で
最後にタイトルにある通り「ヒロシマ独立」のための独立宣言と憲法私試案を提示する。
そこにある「正義と平和のための独立空間ヒロシマ」の姿は興味深い。独立国家ではなく、
独立空間としてのヒロシマ。彼が想起・提案するその独立空間を皆さんはどう考えるだろうか?

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