「本物の教育再生会議」で言ってること

 先週の金曜日に名古屋に出張に行った際にドタバタと駅で買った『文藝春秋』12月号。この月刊総合誌を買うのは、普通は芥川賞受賞作が載っている時くらいなのだけど、新聞で「これが本物の教育再生会議だ:カリスマ教育者三人が論じ尽くす」という特集記事があることを知ってついつい(笑)。三人とは、陰山英男立命館大学教授、齋藤明治大学教授、藤原和博杉並区立和田中学校校長。ね、なんとなく読みたくなる感じでしょ。わはは。でも、なかなか面白かったのでいくつか引っ張ってみよう。途中で昨日の日テレの世論調査も引きながら。

齋藤 (前略)学校ではいつの間にか、先生と生徒が話し合ったり、ひとりの生徒の発表を残りの39人が聞く授業が理想とされたでしょう。教室がトレーニングの場から、「授業という演劇」のようになった。

陰山 それは指定研究で、「いい授業」というモデルを押しつけられたからです。たとえば、研究指定校の国語の授業では、「『ごんぎつね』をよんで感想を発表しよう」とみんなで考え合うのが「いい授業」だとされました。これは一時期の欧米の授業の影響です。寺子屋式のトレーニングは「詰め込み」といわれて、レベルの低い授業だとみなされた。実は僕も教師になった頃は、演劇みたいな「いい授業」をしようと懸命に努力しました。でも子どもの学力は全然伸びない。実のところ「丁寧で、活発で、豊かな授業」が、子どもを伸ばすとは限らないんです。むしろ皮肉なことに「粗くて、早くて、繰り返す授業」の方が学力がつく。その方法のひとつが、「百ます計算」だったんです。齋藤 野球でも、最初は一球ごとにじっと考えて打っても上手くならない。バッティングマシンで何百球も打って、はじめて力が付くのと同じです。ひとつの動作を身につけるのに、二万回の訓練が必要だとされていますから。

藤原 百パーセント賛成です。私のいる和田中では、[よのなか]科という、社会のしくみを話し合ったり体験する授業をしていますから、「演劇的な授業」という印象を持たれるかもしれませんが、これは三年生の週二コマ、道徳と総合学習を使うだけ。あとは選択と総合を除いてトレーニング系の授業です。(中略)

齋藤 トレーニングは個性を殺す、創造性を埋没させるというのは、迷信ですね。モーツァルトもピアノの名手になったから作曲ができた。トレーニングは、自由をますためのものなんです。(p.132)

メディアが子どもを壊す

藤原 「学力低下」というとすぐ学校の責任にして、制度を変えようとするのはおかしいと思うんです。これまで教育は、学校と家庭と地域社会の三者で支えてきた。ところが親のあり方も変質し、地域社会は崩壊しています。さらには、メディアの影響が強くなってきたことも見逃せません。たとえば、いま子どもが一日にどれくらいテレビを見ていると思いますか。ベネッセの調査によれば、つい先ごろまで一日三時間だったのが、今や四時間に増えているんです。すると365日で1400時間テレビを見ていることになる。一方で、中学校の授業は年間で約800時間。そのうち英・数・国・理・社の主要五科目は400時間にすぎません。

陰山 小学校の主要四教科が、年間で390時間ちょうどです。

藤原 テレビ1400時間に対して、主要教科の授業はわずか400時間。この圧倒的な差を考えずに、学校制度を少々変えても効果は上がらない。テレビに子守をさせておいて、学力低下を一方的に学校のせいにするのはナンセンスだと思うんですね。中学になると携帯電話も登場します。夜中の十二時すぎまで自室にこもって携帯でショートメールを二百通交わしている中学生は珍しくない。テレビと携帯に浸っている時間が一日に六時間、さらにゲームもある。メディアの問題を考えずに教育再生はありえないでしょう。(p.135)

 改めてテレビの存在ってのを考えました。そのテレビ局日テレの最新の教育に関する世論調査がでていたのでまずはそれを見てもらってからまたまた引用を。

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齋藤 学校は、文化遺産を継承する責務を負っているんです。言語や数学や社会的な知識、こうした文化遺産を集約して教えることは、家庭では難しい。だからこそ学校を、学力向上を中心に据えた人間形成に専念させてほしいし、しつけなどの問題は本来、家庭が負うべきですね。授業と、部活などの生活指導が学校の二本柱といわれたけれど、やはり勉強に比重を置くのが基本だと思います。勉強に力を入れたいからと部活をやめた子が白眼視されるような風潮はおかしいですよ。(p.138)

不適格教師をどうするか

陰山 教育再生会議で具体化しそうなのが、「教員免許の更新制」です。すでに中教審も十年ごとの更新を提言していますから。しかし、教員免許の更新によって不適格な教師が排除できるんでしょうか。十五時間の講習を二年にわたって受けるだけの、形式的な制度に終わりそうなんです。問題なのは、不適格教師の穴埋めをしていた優秀な先生にまでフィルターがかかり、彼らが動けなくなって状態が悪化することです。事務的な手間もバカにならない。これは無駄な制度改革に終わると思います。

藤原 だいたい、不適格教員といっても数パーセントから一割でしょう。その人たちを排除するために投資するのならともかく、、あとの九割の先生に網をかけるというのは、無駄じゃないですか。全国数十万人の教員に講習を受けさせるには、数十億円かかるかもしれない。

陰山 現状の制度でも、校長が決断すれば、不適格教師を辞めさせることはできます。要はマネジメントなんです。(p.140-141)

 義務教育に関しては少なくともしっかりと学力を付けるために先生の役割を果たして欲しいと思うんですよね。そのうえで、ひとりの人間として生徒たちと付き合う必要があるわけで、馴れ馴れしくもなく、つっけんどんでもない先生像を個人的には望むなぁ。

 そうそう、この『文藝春秋』。もうひとつ面白い記事があるのでまた別エントリーで。