ずぶ濡れの洗濯物

朝起きたら雨が降ってた。あー、仕事行くの大変だなぁと思ってカーテンを端に束ねているとベランダに干したままの洗濯物。コインランドリーの乾燥機で乾かすとまずいかなぁと思って干していたものをすっかり忘れていた。

その原因はより太陽があたる位置で干そうといちばん日の当たるところに出していたのだけど、だからこそ屋根のない場所で(そう、僕の部屋は東向きだ)、さらに内側の高い洗濯紐ではなく、外側の低い物干し竿にかけていたから目に入りにくかったわけだ。ベランダに続く、内の窓の下半分はクリアなガラスではない。あーぁ。とりあえずめんどくさかったので、そのままにして外出し、さっき救出。最早どうにもならないのでまた洗濯だなぁ。

別に意図したわけではないけれどもどうにもならないことはある。できれば、それを前向きに解決して進みたいと強く思うけれど、周りの環境がそれを許すまじ!としていることが往々にしてある。その環境そのものも自ら創り出したものであることもまた事実ではあるにしろ、実際に解決すべき問題そのものとは別にある問題が絡まっていて解決困難に見せられ、断念の方向へと未必の故意的に流されているものもあるのだ。自分自身、別の問題に関わりがない以上、ほんとに「どうしようもない」と思ってしまうけれど、それに引きずられてしまう弱さもまたもっていることに自分自身、がっくりしてしまうこともある。ひろく共有されるべき本来の問題が、見えない雲間に隠れてしまうことを恐れる。同時に、ある特定の対象に矮小化されてしまうこともまた恐れる。

どうにもならない。そう思ったとき、一息入れて周りを見渡すことが大切だ。別の角度からこの問題を語ることができないかどうかを考慮することが大切だ。「自分」という主語にいつの間にかとらわれていることが往々にしてある。なんのためにしているのか?という原理原則に帰ることもまた大切だ。僕が今関わっているNGO/NPOなんてものはまさにそうだしね。

…と考えたとき、どうにもならないずぶ濡れの洗濯物の反省は単に「また洗濯だ」ではないのかもしれない。ずぶ濡れになった本質的な問題とその解決を妨げた原因をよくよく考慮してみると………うーん、むにゃむにゃむにゃ………。