2012年08月06日のツイート
@dskfj: 試験に出る問題を伝えていて、その勉強をしていないというのはどうしてなんだろう。4ヶ月間、勉強していなくても、この1週間をがむしゃらに頑張ることである程度はなんとかなる。ただこれには「基礎体力」が必要。それがないなら普段からするしかない。このまま就活を迎えると…。さてどうしよう?
@dskfj: NGO論の試験の採点、6割方終了。ここまでを見るに完全に勉強している人としていない人に二分している。試験勉強をしていない人の中には授業中に耳にしたものを書いているんだろうものもあるけれど、まぁ勉強していないから回答になるならない以前に何書いているかわからないという…ね。ふむ。
@dskfj: あとすごい良いレポートなのに名前がない。もはや誰かもわからない。この1枚がないばかりに単位でないのは可哀想なくらい良いレポートなんだが、これまた仕方ないのだよな。NGO論のレポートのルールもそうなのだけど頑張っても守りごとがダメだったり、名前がないならダメなのだ。それが世の中。
@dskfj: お昼からの会議なので午前中は成績評価をセコセコとやってるのだが、実践論のレポートを出席していたはずなのにほとんど出していない人とかいて、本当にどうしようかと悩む。WSとかも頑張ってて、僕がなくしたんじゃないか?と探すのだけどやはりない。うーん、どうしようもないのだがなぁ。
@dskfj: 承前)広島から3日後の長崎、ビキニ環礁で被曝した第5福竜丸、福島原発事故など。核の悲惨さを僕たちはこれまで経験してきた。「なくすことが出来れば一番いいけど…」という躊躇が生み出す悲惨さを僕たちは想像することができるはずだ。この夏は祖父がなくなって初盆。笑顔で前を向いて会いたい。
@dskfj: 承前)祖父はその後、広島東部の地元に帰って地域のために街づくりに励んだ。同じ所に住む人たちのために、時に衝突もしながら、一緒に地域でお金にはならないけれど大切なことに取り組んだ。そこには広島市内の当時見た光景から何か人生において大なり小なりの決断をした結果なのかもしれない。
@dskfj: 承前)核の悲惨さを単に本や映像で見るのではなく、自分の大切な人たちがまさにひどい状況に置かれているのを目にしている状況は、もはや僕たちには想像しにくい状況だろう。祖父が市内に入って目にした光景はいったいどのようなものだったのかを考えはするが、それの何倍もの衝撃だったはずだ。
@dskfj: 承前)大きな爆弾が落ちて線路が破壊され、列車を進めることができない中、祖父は仲間とともに線路の上を歩き、広島市内に入った。そして被曝した。祖父が見た光景は今の僕が想像できないくらいの惨状だったはずだ。もちろん祖父だけではなく、広島の多くの人が核兵器の悲惨さを目にした。
@dskfj: 承前)67年前に国鉄の機関士をしていた祖父は、広島県東部の糸崎から広島に向かう列車に乗っていた。けれど列車は広島市に入る前に線路の上で立ち往生していた。原爆が落ち、市内は大きな被害を受け、大混乱をしており、いっこうに進まないなかで列車は市内に入ることができずにいたのだ。
@dskfj: おはよう、世界。お弁当を作って、8月6日の8時15分を迎えた。広島に原爆が落ちてから67年目の朝は、いつもと同じように暑い朝。こうやって67年前のあの日も人は普通に生活していたのだよな、などと考えながら、ふと今年1月に亡くなった祖父のことを考える。祖父も被爆者だった。