音楽に求めるもの〜曽我部恵一バンド『キラキラ!』

 もう購入して随分経っていて、少し頻度は落ちて来つつも、それでも良く聞いているCDがある。曽我部恵一バンドの『キラキラ!』だ。

キラキラ!

キラキラ!

 これを聞いていて、しかも結構好きなんだよね、という話をすると、たいていの友人たちは「らしくないね」と結構な確率でいわれているのだけど、僕も自分自身そう思う。歳を重ねるにつれて多少やはり音楽の趣味も変わってくるのだろうと思っているのだけど(だからこそ、先日はコールドプレイの最新アルバムを買ったのだけどね…もにょもにょ)、昔なら「うーん、悪くないとは思うんだけど、僕はね」なんて言っていたはずだ。

 なぜ?という理由をあまり深く考えていないのだけど、おそらく昔は曽我部恵一という人間が作り出す音にパワーを感じなかったのだと思う。サニーデイサービスにしても、歌詞がとてもうまいなぁとは思う一方で、そこに惹きつけられる生き方をどこか「軟弱だ」と思っていた…うーん、正確にはこの言葉も違うと思うけれど、思いつかないから仕方がない。

 ここ数年、CDを買って聞いていてもあまり「歌詞」にこだわらなくなっているというのは、多少影響しているかもしれない。正確に言えば、歌詞カードを穴が空くほどみることをしなくなったということが。確かに歌詞カードに並ぶ翻訳された日本語や元の英語の歌詞を読みながら、そこに表されるストレートな社会の切り口に何かしらのパワーをもらって生きていたところがある。もしくは逆に弱い自分を素直に映し出す鏡として共有しながら。けれど、本当に最近は歌詞カードを見ることが少なくなった。

 もともと「ボーカルは楽器だ」と思っているので、歌詞が音楽以上に自分のすぐ近くを通り過ぎていくような曲は聞かないので歌詞カードで確認をするという意味合いもあったのだけど、それ以上におそらく歌詞から何かしらの生き方をもらっていたように思う(そのくせボーカルが出ずっぱりのバンドは好きじゃない)。けれど、最近はそうした生き方に少し変化があるのかもしれない。

 音楽というか、曲そのものが持つパワーにまさしく「力」をもらっているという聴き方をしているのだろうと思う。もちろんそこにはボーカルが口ずさむ歌詞も含まれているのだけど、それ以上に全体的な空気感や世界観がとても重要だ。

snoozer (スヌーザー) 2008年 06月号 [雑誌]

snoozer (スヌーザー) 2008年 06月号 [雑誌]

 曽我部恵一バンドの『キラキラ!』はその意味でまさに今の自分の生き方として、とても彼らの曲が持つ空気感や世界観は共有できる…いや憧れる部分がある。音楽雑誌『SNOOZER』で編集長のタナソウは『幸福の再定義』という言葉を使って可能性としての定義付けがされることが素晴らしいということを書いていたけれど、確かにその通りで、このアルバムから生み出されるまさにキラキラした世界は素敵だし、目指したいと思ってしまうのだ。

 もちろん、社会の歪みはいつどこだって存在するし、それと毎日向き合って生きていかなきゃいけないけれど、それはそれとして受入ながらも自らの可能性を再定義して幸せを生み出そうと努力すること。僕もあなたも同じ人間でこの社会で辛酸甘苦を享受しながらより良い生き方を探る旅をし続けるのだから。