越える言葉と行動を〜原爆ドームと原爆慰霊碑の前で

 広島に行ってきた。広島といえば、広島市民球場原爆ドーム平和記念公園。球場は残念ながら、昨日は試合があったけれど、今日は移動日で試合はない。広島駅から相棒と広電の路面電車に乗って、原爆ドーム前で降りる。球場を背にして原爆ドーム平和記念公園へ。何度か市内に足を運んでいて、ドームも公園も行ったことがあるけれど、随分昔の話で、久しぶりに足を向けた。

 停留所にとまる少し前から窓の外に原爆ドームが見えた。前に見たよりも随分古ぼけているように思える。60年を越える重みがそこにはある。外国人や修学旅行の小学生・中学生の集団があちらこちらに見える。無理矢理連れてこられた人もいるかもしれないけれど、見ていて損はない。歴史の流れが朽ちさせる建物と記憶。幸いにも翌日は新しい、初めての戦後生まれの超保守総理が生まれようとしている日だ。61年前の8月6日もこれくらい暑かった日だろう。広島っ子の相棒はカラッと晴れた夏の日は気持ちがいいというより、原爆投下日を想像すると言っていた。今とはまったく違う街の風景だろうが、それでも人が生きていた暑い日は変わるまい。

 平和記念公園の原爆慰霊碑には今日も恐らく被爆者の家族・親類だろう人がやってきていた。石棺に刻まれた「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」という碑文に、そしてもちろん亡くなった家族にジッと静かに手を合わせて。

 岡山よりとはいえ、僕自身も広島出身だ。夏休み真っ最中の8月6日は必ず登校日で原爆にまつわるさまざまな話を聴いたし聞かされた。その悲惨な現実とその状況を生みだした歴史の必然に涙するし怒りを持つ。国のために…なんて言葉では何も満たされないことはバカでも分かるはずなのに、右傾化する日本。歴史は繰り返すという言葉は重い。

 同時にただ反戦・平和を今、口にする人たちにもなんだか違和感がある。僕は広島にいた18年間、物心ついてから少なくとも10数年間の毎夏「原爆」という歴史の学びのど真ん中にいた。「戦争はダメだ」という言葉の強さとともに弱さも実感する。というか、「戦争がダメだ」と少しも思っていない人間なんてこの国にはほとんどいないに違いない。ただ突き出された現実に言い切ることに二の足を踏んでいるのだろう。911直後のアフガンからイラクに繋がる流れのなかで「戦争はダメだ」という言葉には力があった。ただ、今はその言葉にもう少しのサジェッションを加えなければならないはずだ。ポスト冷戦の過渡期の今、どのような言葉や行動が必要なのかまだ考え倦ねている。「戦争はダメだ」もデモも、もはや力はもたない。どこか、おそらく人を遠ざける。考える前に行動…は、今の僕には多分何の役にも立たないし、世間にもそうではないかという気がする。

 二度とこんな惨劇を日本で起こさないために、そして今起こっている世界の惨劇を止めるためにどのような言葉や行動が必要なのか。原爆ドームの前で、慰霊碑の前で考えた。そして今も考えている。